管理人の独り言 くれぐれも「独り言」ですから・・・

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上に立つ者
力量のない者が人の上に立つというのは恐ろしい。勤めをしたことのある人なら誰しも経験したことだと思うが、こんな質(たち)の悪いことは意外に多いものだ。私の場合は職業柄、そのせいで亡くなった人もいれば重症を負った人も多い。軽い怪我などとても数えきれるものではない。
そんなとき、彼らは決まってこう言ったものだ。「状況が悪かった」
この台詞によって自分で尤もらしい理由を付け自分を納得させるという共通点である。
大会に於いても負けたら「相手が悪かった」勝ったら「どんなもんじゃい」と、選手も選手なら監督も監督である。努力の結果を試し合うのであるから考え違いも甚だしいのではないか・・・
立派な「上に立つ人」というのは何の世界に於いても示すものが違っている。
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毎朝
「今日も朝を迎えたか・・・」と目覚める。これが一端の宗教家か何かだったら「ああ、神仏は今日も自分に試練を与え給う」となるのであろうが、残念ながら管理人はその辺に転がっている「ただのオッサン」に過ぎないからそんな風に思ったことはない。「今朝も生きて目覚めたぁ〜っ、良かったぁ〜っ」精々この程度だろう。実はこれだけのことでも、なかなか気づけないことであるから管理人は大したものなのだ (◎Ω◎) (((!!(゚ロ゚ノ)ノ
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袴について
履き方やたたみ方については、このホームページを立ち上げたときにアップしておいた。立ち上げには何の構想もなく思い付くままの項目を作ったのだが、やはり日頃から気になっていたからだろうか真っ先の候補となった。
この二・三十年だろうか、やたらに長い袴を履いている人が普通みたいになってきている。剣道具を着装しているときはさほど気にもならないのだが、稽古着だけの姿のときはみっともないことこの上ない。本人たちは「足が長く見えてカッコイイ」とでも思っているのだろうが、余りにもとんでもない格好なので、理由を自分なりに真剣に?検証していたのだが、やっとそれらしい答えに行き当たることができた。
やはり第一位は、さっきの「カッコイイ」だろう。第二位は私の長ぁ〜い推理なので簡単にはまとめられないが、こういうことではなかろうか・・・たぶん正解に近いと私は思っている。
特に足が長いとか短いとか言う人は別として、例えば私の場合は身長173?で標準的な袴は紐下約89〜91?である。袴のことであるから長さの単位は「?」ではなく「尺寸」で「二尺三寸五分」となる。
ところがここで「それはおかしい」と瞬時に計算できた人はいますか? そのとおり、アナタの計算では「二尺三寸五分」は「71cm」になっていませんか? 私は店舗で28号や29号を出されたりすることがあります。 さあ、ややこしくなってきたぞぉ〜。
一寸は3.03?と思っているアナタ、平成生まれですか? 袴は鯨尺を用いるから一寸は3.8?なんですけど。
もともとは「二尺三寸五分=23.5号」であったはずだ。すなわち、鯨尺であるから「二尺三寸五分×3.8=89?」であるが、これがいつの間にか鯨尺を知らない業者か誰かが「二尺三寸五分×3.03=71?=23.5号」と表示し始めたのではないだろうか。そうすれば辻褄が合ってきたように思うのだが・・・。 もちろん正しく表記しているメーカーも存在しています。
「いくら何でも業者が・・・」って甘い甘い○o。(^∪^*) ものの分からない業者なんて山ほどいることを分かっていないと。゚(´⌒`)゚。
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「初一念」
最近「微妙に違う意味」に用いられているようなので調べてみようと思ったが、面倒なので手元にあった電子辞書を・・・やはり「最初からかたく心に決めた考え」とある。同じようなものなのだが、やはり「微妙に違う」のである。その辺りを明確にしておかないから、日本語がどんどん乱れていくのだと思う。誤解(単純に理解)されると困るのだが、「最初から決めた」ではなく「最初に決めた」である。ことにのぞんで瞬時に決意を固めることも要素である。決意したその一瞬に男の価値が表れる。
そして、それは微塵も揺るがぬ見事なものであるべきなのだ。さもないと価値の殆どがなくなる。
いま、初一念を貫く男たちがどれほどいることだろうか。男が思い迷い、迷い抜いてふらふらと何度でも己の思案を覆している・・・あなたの周囲にも溢れているはずだ。
「そのときになったら」という間の抜けた考えの男たちに、本当にそのときが来たならば・・・右往左往のジタバタしかできる道理がない。「葉隠れ」に山本常朝いわく「そのときがただいま、ただいまがそのとき」
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えっ!?
先日、某八段の先生(と言っても管理人の兄)の部屋で雑談中のこと。
「困ったことに最近なぜか、どこそこで稽古したらいかんとか、誰それと稽古したらいかんとか言うのが多くなった。断りなくよそで稽古するなとか・・・何を考えとるんや分からんな」と言われてビックリした。
なんで剣和会や私が「そう言われた」ことを知っているのかと・・・思ったのだが単なる偶然の会話で、こっちのことではなかったのです ハハハ(´3`)
しかし、笑い事ではありません。ほんとうにこんな理解しがたい発言が実在しているのですから・・・
どうしてそんなに閉鎖的になる必要があるのでしょうか? 自分の稽古に関わりのある人が、自らが上達するために稽古しようとしているのを何故に制限しようとするのか、いくら考えても答えが出てきません。
あっ? もしかしたら、上達されたら困ることでも?! 
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あれっ?
ペットボトルの蓋を開けようとして・・・ 「あれ、固い!」
そういえば、たまたまかと気にも留めていなかったけど握力が極端に低下してきているようです。現役当時、特に上段の頃は90kg以上あったのが十数年の入退院終わり頃には60ちょっと。いつだか忘れたけど最後の測定では50ちょっとだった・・・(それでもまだ「たまたま」と思っていた気楽さ)
もしかしたら・・・もうペットボトルが限界になってるん 【゚ロ゚】!!
そうそう、腕立て伏せなんか二十回も出来なくなっていたのに気付いたのはいつだったろう。二百や三百回など平気だったから数えるのが面倒だったのに 。゚(´⌒`)゚。
大変だ、大変だ・・・だからといって今さら (/o\)  皆さん、「継続」ですよっ!
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難儀ななぁ〜
こんな独り言にわざわざの異論・・・ 「単に感じたこと」「くれぐれも独り言」とお断りしてのことですよ。それなら書くなって? そこまで言われたくはないなぁ〜。 わしゃ、アンタの何なのよ?!
誰も傷つけてはいませんし、誰かにケンカ売ってるわけでもない。 正論だと、少なくとも私は思っていますし、だからこそアクセスの40%近くがこのページを「お気に入り登録」されているのだと思います。
それとも、何かご自分と重なって都合の悪いことでもおありなのですか?
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子どもたちに願うこと
この世界、いつまでにどこまで行かなければ・・・と、学校みたいな単元があるわけではありませんね。
全員が足し算出来るのを待っていたら、次の引き算に行けない。掛け算にも割り算にも進めません。だから学校では、いわゆる「落ちこぼれ」という現象が起きているのです。
少年剣道にまでそんなものは要らないと思うのですが、現実には「ある」という話。
なのに、先生方はみんな同じレベルにしようと思うから無理がある。子どもたち一人一人の能力が違うのですから、それぞれによって「満点の基準線」が違うことに気付いてくださいませんか?
道場では人一倍の稽古に汗を流し連戦連勝で満点の子もいれば、笑顔で道場まで来ただけでも満点の子もいるのです。
例え少しずつであっても「努力することを覚える」「我慢することを覚える」で、立派に稽古の意味があるのです。
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どうして剣和「会」?
「○○道場」「△△館」ではない理由はちゃんとあるんです。
「道場」はご存知のとおり「館」はいろんな意味がありますが、ここでは「学校・道場などの名に添える語」の意味として使用されます。「会」は書いて字のとおり、ただの「集まり」なのです。
「なぁ〜んや」なんて言わないでください。大きな意味合いが込められているのですから・・・
要するに「大人も子どもも」「高段者も初心者も」何でもかんでも「横一線のお付き合い」で行こう!と願いが込められているのです。お互いの人権を認めながら・・・
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勝つこと 
って、決して一番ではないけど「大事なこと」です。 勘違いしてもらったら困るけど「勝たねばならない」ということではありません。 大切なのは「勝てるための努力」「勝つための努力」であって「勝ち」はあくまで努力の結果です。 私たちのこの信念は揺らぎません。
「勝負にこだわらず礼儀を」どうのこうの・・・言う人は、嬉しいことに?たくさん(ほとんど)おられますね。 「おおっ! 立派、立派」と拍手を送ってみたら・・・何のことはない、口先だけだったというのはよくある話。 試合会場では、全員を整列させて騒音とも思える拍手と大声援を送らせているのは何処の何方? 負けた選手に罵声を浴びせてるのは・・・? ほんの少しでも勝ったら「強いぞ、○○」ってホームページに書き込むのは・・・?
これまでの努力を認めてあげるなら、試合ぐらい黙って見守ってあげてくださいな。
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「剣風」
って言葉はあるのかな? あるならあるでいいし、ないとすればそれに代わるのは「芸風」でしょうか?
いまどき「芸人」とか「芸者」とか言ったら違う人たちのことのようですが、本来は「武芸者」のことを言います。
そして、「芸風」となると「芸の演じ方」「芸から受ける感じ」「独特のもち味」を指す言葉です。
ここ数年「剣風」という言葉をよく耳にし、そのたびに強い違和感を覚えるのですが、その単語自身もさることながら「その言葉」と「その言葉を使う人たち」の技量とが全く一致しないことが大きな原因だと思います。
そもそも、まともな人なら「剣風が違うからあの人とは稽古できない」「剣風が違うからあそこで稽古するのはよくない」なんて言いますか?
今のところ、ある特定地域の大先生で好んで使われている言葉のようですが、そんな思想が拡散しないことを祈ります。
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稽古のハシゴ・・・
今日は数十年ぶりにハシゴしてみました(^^)/ と言っても、二回目は見学(見物)のみ。 見るもの聞くもの全て「ウムムムッ・・・」っと感心しきり。
とりあえず名人を目指している人はともかくとして、既に名人になっているつもりの迷人って何処にでもいるものですわ(-_-;)
教えられている方も「あれは迷人だ」と子どもでさえ察しているのではないかと、他人事ながらちょっと心配してあげたりして少々疲れた f(^^;) が、そんなことは先方の勝手でしたねぇ〜
でも稽古着で道場に来て、終わればまたそのまんま帰るって・・・これはいただけません!(これは私の勝手?!) これだけは先生が率先して実行して欲しいけど、皆さんは如何お思いでしょうか。
「早い面を打て!」「もっと強く打て!」は、言っても出来る子も出来ない子もいて当然。それぞれの運動能力ってものがあるんですからね。(先生の指導力はおいといて〜っと)
みんながみんな同じ目的で稽古してるんではないって、そろそろ気付いてあげたらどうなんですか? 「立派に挨拶できるように」「友達できるように」「努力できるように」「・・・できるように」数え上げたらきりがないほど、特に子どもたちには大人が考えてること以外に求めているものがある場合が多いのです。 「日常に役立つ」「将来に生きる」ことこそ、誰にでも出来る基本であって目的ではないかと・・・私は思うのです。 誰よりも早い面が打てたって、社長にも大臣にもなれませんって。 それより当たり前のことが当たり前に出来るようになってこそ、立派な社会人にもなれるでしょうし立派な家庭も築けるのではありませんか? ブツブツ・・・と今夜も独り言
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今日も・・・
「やりきれない」思いをした○○県○○連盟の判断。40年前のことを思い出した。そして32年前のことも・・・ 上位を次の大会に出さずに「選ぶ」のなら、初めからこんな予選なんかしなければいいのに。全然変わってない(..)
しかし「やりきれない」のは当たり前、槍は切るものではないのだ。通して抜くから「やり通す」「やり抜く」ハハハ、笑って今日のことは忘れるとしよう・・・
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試してみよう
小さな健康管理
春から梅雨時にかけては、私ならずとも体に大きな負担を感じる人は多いようだ。この時期の過ごし方ひとつであとに控える酷暑の堪え方にも差が出てくるのである。そして、結局は秋まで引きずることになるのだが健康(と思っている)な人には、さほど深刻に受け止められていないのも現実。単純に「疲労」であるとか「四季のサイクル」ぐらいにしか考えられていないから、時期が来たら治るという安易な捉え方になってしまっている。
自動車を例にとってみたら分かりやすいと思う。用途に応じた使い方も必要であるし扱いひとつで寿命が全く異なることはご承知のとおり。ただ、自動車は買い換えれば再び元気いっぱいのものが手に入るのだが。人間、そうはいかないのが当然・・・
若い頃の私には二日に一度しか眠らなかった無茶な時代が約十年あった。その「二日に一度」も決して十分ではなかったのだが、大して苦にもならなかったもので「人生たかが数十年、あれもやりたいこれもやりたい」と何にでも手を出していたからである。その結果が「いま」なのだ。
まさか私のようなことをする人はまずなかろう、脱線! さて、何をお奨めしたいかというと・・・
「冷たいものの飲食をしない」「二十一時以降に食事をしない」の二点。
これはそのときには殆ど体感しないが数ヶ月後にはっきり分かる。何よりも十年、二十年後にその差が歴然としてくる。その頃にも健康でいることが出来るか、何らかの持病を抱えているか・・・
胃を冷やすのはその分「健康な期間」を減らすことになると言ってよい。そして、眠っていても動いている胃は深夜の食事でダメージを重ねていくことになる。「いま堪えていないから何ともない」のではなく「いま堪えていることに気付いていない」だけ。その積み重ねの結果が表れるのは数十年も後のことなのだ。
この時期の稽古後に、よく冷えた飲み物はたしかに「生き返った」気分を与えてくれる。が、それは錯覚に過ぎない。与えられたのは「その気分」だけであって、与えて欲しくはない「将来の病」の条件を積み重ねているだけなのである。稽古中、稽古後の水分補給に「温いお茶」を試してみよう。
「今日一日を生きる」ことが目標となった今の私であるから「実行の成果」がなおさらよく分かるのである。騙されたと思って実行されることをお奨め!
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何の、まだまだ・・・
とは思ってみるが、その辺を歩いていて「あっ!?」と思うことが多い。何のことかというと・・・
「いま、体力の限界のことをしてる」なのです。分からないでしょうねぇ〜、普通の人にこんなのは。
自宅の階段を上っているときなども「上りきれるんかいな」と毎回感じる。そして、何とか上りきったら激しい息切れ。それでも「気力?」で見栄は張れる・・・のが不思議。
地下鉄の階段など、腹の中では途中で「ちょっと足を止めて休憩を・・・」というのが本心なのだが「これはカッコ悪すぎるなぁ」ってわけで「あと一段、もう一段」と、知らん振りを装って上がっていくのです。上りきったら、それこそ「ここで座り込んで休憩!」の誘惑が再び。
ところが、目の前を行く「今どきの若者」が見えたとたん「こんなフニャフニャしたヤツらに舐められて堪るか」と、立ち止まることにも妥協できなくなってしまうのだ。数秒後には真っ直ぐ歩けていない自分に気付くのだが、まだ意地を張って歩道のブロックによって作られたラインを目標に、歩き続けるのは時代遅れの頑固オヤジか。
しかし「これだから自分は今生きることが出来ている」のだろうと、正直なところは感じているのだ。
二年半前「よくこれで生きていますね!? 死んでる人の体ですよ!」と言った医者も、今では「この強情的な気力があって生きてるんですねぇ〜」と言うに至っているのだが、確かにそうだろう。でも、こんなことはいつまでも続けられるものでもなかろうと自覚はしているこの頃。
「みんな、何をグズグズしてるんや! オレはいつまでも竹刀を持ってられんぞ・・・」
昨日、切り返しをやろうとして出来なかったとき、密かに心で叫んでいたのだった。あと一日、あと一日・・・と自分への叱咤激励もあと何回?
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ちょっとここへ座れ!
って、言ったのかどうかは知りませんが・・・
とんでもない話で、団体戦などでさえ次の選手が対戦しているのに終わった選手に説教?を始めるバカをよく見かけます。「オレは監督や、偉いんやぞ」ほんまかいな。普段でも講釈たれるのに正座させてウダウダと・・・
そんなにいい話、大事な話なら真剣に訊いて理解させてやらにゃなるまいに、子どもたちは足のしびれに気を取られ「早く終わってよっ」と腹の中では思っているはずなのです。事実私もそうでした!
子どもたちが、しびれに我慢できず座り直したら「こらっ、訊いてるんかっ!」って。訊いてるわけがないやろ。本当に大事なことならリラックスさせて訊かせてあげたら如何?
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桂竹の竹刀
最近よく目にする「桂竹製最高級竹刀」 何じゃこりゃ?!
「竹は京都」というイメージがあるから、メーカーや販売店が「桂」という文字で京都を思わせて騙そうという魂胆があるのかとは思いたくありませんが・・・
「かつらたけ」ではなく「けいちく」と読みます。台湾原産のもので「台湾真竹」ともいいます。竹材としては優秀なものですが、竹刀に用いると「縦割れ」が多いのをご存知でしょうか。
「燻し」や「手揉み黒桟」「本藍染」そして「総手刺」のように「偽物」がまかり通り「本物」がなくなっていくのは淋しいことですが、使う側が知らないというのでは仕方ない・・・?
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本年も・・・
あと一日を切りました。「何を伝えられたか・・・」今年も振り返ってみて「あったような、なかったような」
間違いなくやってくれているのは、稽古後の「袴をたたんで」帰ること。それ以外はやっぱり「あるような、ないような」である。
進学したりで環境が変わると「技術的にはまた違うことをやらされて意味がないのだから」とこれだけでもいいと変に納得してみる・・・(が、やっぱり虚しいのが本音)
剣道具の使い方を学ぶことで「ものの大切な扱いを学ぶ」ことが出来るし、たかが一本の竹刀でも「手入れと注意で長持ちすることを知る」ことが出来る。これだけでも精一杯の彼らにこれ以上のことを望まずともよいのだと自分に言い聞かせている毎日であったが「そのものは出来てはいるが他のことに応用がされていない」ことは事実であるから、やっぱりこれさえ出来てはいないのだ。
そういえば「だって・・・」「でも・・・」が多すぎるなぁ〜。 ん、「・・・のに」も耳障りな言葉ではある。これがある以上は進歩がない。新年は「罰金制度」の導入か・・・(まさか、カネを取るわけにもいかないから「素振り100本!!」)
2008年は「だって、でも、のに」の追放が目標(^-^)
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納得いかない(2)
学校大会で時折見ることがあるのですが、審判員が鋏を持ってきて選手の面紐を切ってしまうという「暴挙」。これってどうなんですか? 私は見る度、聞く度にとても不愉快な気持ちになってしまいます。
校則に反するというので教師が、生徒の髪の毛をいきなり黒染めしたり、スカートの丈を鋏で切ってしまうのと同じではないですか?
確かに「試合者要領」の「その他の要領」に「面紐の長さは結び目から40cm以下とする」というところがあります。決まりがある以上、それを守らなければならないのは当然ですが「教育の一環としての学校剣道」だけに、他に指導方法や手順とかないものかと思うのです。
規則に反しているのなら単なる「反則」として扱うべきで、それぞれの反則については「対応」が決められているのに、この件については明記されていないからそうなるのでしょうか? 明記されていないものは他にもあるではありませんか。仮に服装違反で「稽古着・袴」でない選手が登場してきたらどうするのですか? まず、対戦させないでしょう。
予め各校の顧問を通じるなどして「このような場合は切るから事前確認を確実に」という徹底がされている場合ならともかく、面紐についてのみ「切る」という安易な行動が認められるとは思いません。
そもそも何にでもサイズがあるのに、市販されているもの自体が二種類しかないのです(そして「中国製」に依存している現在、織りが甘くて使用期間に比例して紐自体が延びていくものです)。こうなれば、定期的な点検でその都度切って長さ調整をさせる指導が必要になってきます(末端処理が面倒ですが仕方ありません)。
私的な意見ですが「40cm以下」を「概ね40cm」とあらため、「概ね」の範囲明記もあるべきではないでしょうか。もしくは業界に働きかけていろんなサイズの面紐を調達できるようにしておくことでしょう。
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納得いかない剣道形
どうしてどんどん変わるのか不思議でならない。これって先人のというか「創始者が至らなかった」という意味なのでしょうか?
それに刀の扱い方から構え方まで、なぜ間違いや理屈に合わないことを押しつけようとするのか理解出来ないでいます。細かいところを言えばキリのない話ですが、聞いてみればなるほどと思えるようなことを列挙してみると・・・

<握り方>竹刀と同じ持ち方ではものを斬ることは出来ません。刃筋を正しくできる道理がないからです。刀の握り方をしていると「剣道形では竹刀と同じように持て」と言われたらしい。そのくせ「刃筋を正しく」と曰う。意味不明・・・
<蹲踞での納刀>刀は手で抜くものでなく腰で抜刀納刀するものです。どうしろと言うのでしょうか・・・
<脇構えからの面>全く構えの意味がないと思うのですが・・・ 脇構えとは下から斬るための構えです。要するに戦時に鎧を着装していない部位など(脇など)を斬るためのものです。
そして、さらにこのとき打太刀仕太刀ともに斬り結ぶのですが、刀身の不自然な部分で止めなければならず・・・
<その他>お偉方はまだまだ他にもたくさん納得いかないことを指導してくれるのですが、もしやするとその方たちだけかも知れないので全ては書きません。

疑問に思われたことはありませんか?

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