管理人の独り言 勝手気ままな御託に、いつもお付き合い有り難うございます (゙´▽`)

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やっと思い出した
高校一年生になってやっと真剣を使った稽古を許されたとき、「なるほど、これや!」と感じ、自分自身もそれなりの変身が出来たフレーズのはずだったのに・・・。 ?のことで言って聞かせるとき完全に思い出せなかった。 とりあえず、浮かぶものは栃(橡・トチ)だとまでは思い出すのだが「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」の後半しか出てこない・・・(^^;)
帰宅してすでに一時間あまり・・・やっと思い出した。 自分を変えた言葉まで忘れてしまうようではあかんな。
山川の末に流るる橡殻も身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ
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何回言うたら分かるねん!
バカタレが・・・。 試合中に何にもせんと立ってたらしい。
で、負けた? 当たり前やないかいっ。 何を泣いとんねん!!
オレは勝敗なんかに興味はないから、そんな試合があったことさえ知らん。 それに普段から、「大事なことは勝つことより勝てるように努力することや」と、これ以上言うのも恥ずかしいぐらいあいつらの耳にタコを作ってきた。
そして、「負けを知らんヤツは勝っても喜ぶな」とも「打たれずに打とうとは考えるな」とも言い続けてる。

「何でジッとしてたんや?」
「相手がメンに来たところを打とうと思って」
お前、オレにケンカを売っとるんか!?
オレは「勝つな」とは言わん。 「そう言う考えを持って勝とうとすること」をいかんって言ってるんやろ。 そんな段階なら「正々堂々、潔く負けてこい」って何回言ってるんや!?
それで勝ったとして、お前は何を得るんや? 潔く負けた方がよっぽど為になる。
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ありがとうございます
今日も、当会へ頂いたメールで「管理人の独り言」にお励ましが。
でも、良くないですよ?! こんなことに共感したりしてたら、お上に睨まれますからね! TSさん、今後とも当会をよろしくお願いします。

でもね、ときどき見聞きするのは確かなんです。 私のここでの言葉を使って子供たちや親御さんに演説してる人がいたり、ホームページやブログに流用している人がいたりね。
私は別に著作権とか言いませんからご自由にして頂いたらいいんですけどね、自分の心底から出た言葉じゃないから、前が抜けてたり真ん中が飛んでたり結論がなかったりで・・・ちゃんと相手に伝わってない。
で、なかにはいるわけですよ。 「あれ? これ、どこかで聞いたような・・・?」ってことで、ネットで調べる人が必ず。
そしたらここに辿り着くってね。 わざわざ教えてくれる人まで現れる始末(^^;)
株を上げようとして下げてしまった人も多いようです。
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久しぶりのフレーズ
この二三年、あまりに苛つくので他との接触を避けていたのだが。
ある言葉を久しぶりに聞いた。
「あいつはええで。 しっかり教えたったら将来有望やな。」

もうええ加減にしてくれよ! その時点で他の子を切り捨てとるやないかいっ!
聞き捨てならん「大先生」の言葉やな。
それに、お前らにそんな「見る目」があったんかいな!?  知らんかった(^^;)
(ついでに言わせてもらうけど、あの子は剣道で「勝てる子」にはなれんよ)

もひとつ言わせてもらえば・・・「教えたったら」ってどうよっ!!
「教える」ってだけでも烏滸がましいのに、「教えてあげる」って何やねん。
呆れてものが言えん。
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本当のところは・・・?
どうなのでしょう? 「出来ない」って本当なのでしょうか? 真実は「やろうとしていない」のではありませんか? ここ何年かの子供たちはそのように見えて仕方ないときが多いのです。
少年剣道に携わってから早いもので四十五年目を迎えますが、これは決して私の思い違いでもないようです。子供たちの生活環境があまりにも変わりすぎたことが原因のように思います。具体的に思いつくところをあげると語弊が生じそうなので控えますが、我慢と努力に欠けることは確かなことだと思います。
保護者の方にしてみれば、そんな広義に考えておられる方もないでしょうから、「うちの子は・・・が足りない」という思いから「剣道でもやってみれば?」になるのかも知れません。決してあなたの子供だけがそうではないと思いますよ。自分が同じ年頃だったときに自分を育てた自分の親と、今の自分の違いや家庭環境の違いから見直してみたら意外にヒントが見つかるかも。
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えっ?!
ついでに思い出した。
私って、あの偉大な斎村五郎先生や中村天風先生の孫弟子でした。たぶん山ほどいる弟子たちのなかで最悪なのでしょうね・・・。「たぶん」ではなく「きっと」ですわ。残念ながら自ら断言できます(=_=)
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名言集?!
今夜ある人と会話していて、ふと思い出したことがある。
昔ある三年生マネージャーがある日突然に「○○(管理人のこと)語録」というものを冊子にして部員に配付したことがあった。たしか、自分の卒業までにと一所懸命にまとめてくれたものだったと思う。何とも驚いたものだが、このオレがこんなことをほざいていたのかと顔から火が出た思いをしたものだ。ミーティングなどでの講釈を一部始終記録していたものだったらしい。
恥ずかしながら、私は若い頃から相当な「屁理屈」好きだったものと見える(^^;)
しかし、なかなかのものも・・・と少しは自分で感心したところもあったようで、机の引き出しにまだ仕舞ってあった。当時はまだ二十代だったので言葉にも重みがなかったろうが、この年齢に達した今ならちょっとは説得力もあるのかもしれない。
次の稽古から、この中から小出しに講釈をたれてみよう。昔は「名言集」として扱ってくれたようだが、平成の今、「迷言集」とか「珍言集」と言われそうな気がしないでもない・・・
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真剣
[名]本物の刀剣。木刀や竹刀(しない)に対していう。
[形動][文][ナリ]まじめに物事に対するさま。本気で物事に取り組むさま。「将来を―に考える」「―なまなざし」
[派生]しんけんさ[名]しんけんみ[名]

しんけんしょうぶ【真剣勝負】
1 本物の剣を用いて勝負すること。
2 本気で勝ち負けを争うこと。また、本気で事に当たること。
わざわざ辞書を引く必要もないことですが、それではこれを書けないので「真剣」を引用してみました。
そもそも、木刀や竹刀は何のためにあるものなのでしょう。これもわざわざ調べなくともご存じのとおりです。稽古に真剣を使っていたら、強い方しか稽古にならないですよね。だって、負けた方は死ぬか大怪我なんですから・・・。みんなが体を張らなくても稽古できるように考えられたものでしたね。
が、それだけが理由なら?! どうして、持ち方・斬り方(振り方)から納め方や抜き方が違うのはどうして?
竹刀剣道(今で言う「剣道」)での握り方をしていたのでは斬ったり突いたり出来ません。やはり真剣道(居合道)の握り方でないと。なのに「そんなことで人が斬れるか」って無茶を言わないでよ。あんたが「斬れない握り方」をさせてるくせに・・・
「竹刀は刀ではないから刀の作法は要らない」って? 「竹刀は刀の代用であるから・・・」と私たちは教わった記憶があるのですが・・・。決まり事が変わっただけなのかな? でも私たちはそのお陰で居合道での作法と切り替える必要がなく助かっていました。
「切り返し」・・・最近のを見ていたら、まるでヘリコプターのプロペラみたいですが・・・。「右(左)面を打ったら同じコースを戻って左(右)面を・・・」? 真剣では真剣に不可能ですよ(^^;)
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大和の吊し柿
「味は大和の吊し柿」という言葉をご存じの方は少なくなったと思います。「見た目は色が黒くてよくないが・・・」という意味のことわざです。そして、ちょっと違う意味で「大和の吊し柿」というのがあって、これはさらにご存じの方は少ないでしょう。私自身もそんな言葉の存在すら忘れてしまうほど久しぶりに聞きました。
柿は蔕(へた)で呼吸していることをご存じでしょうか? 柿にはとんでもない数の種類があるのですが、ほとんどが渋柿ですよね。蔕で呼吸していることを利用したのが「合わせ柿(という名前だったかな)」で、蔕に焼酎を塗って甘くします。
横道へ行ってしまいましたが、さて「大和の吊し柿」について、勘の良い方はもうお気づきでしょう。
「下手(蔕)で固まる」「下手(蔕)から固まる」という一種の言葉遊びのようなものです。
私もよく言われていたのに、すっかり忘れてしまっていたなんて自分が上手になったつもりでいたのでしょうね。「器用なヤツは我流に走る。下手くその方が教えに忠実な分だけ上達できる」と言われて、同期や後輩に打たれ続けてもその言葉を信じて一所懸命だったのに・・・反省。
ただし、「下手くそ」=「上手になれる」ではありませんからね。「教えに忠実」という条件付きですから念のため(S範士・N範士の名誉のためここははっきり)。
ん? それでは子どもたちが忠実に守ろうとする(子どもたちに守らせようとする)その教えが「いい加減」だったら大変な悲劇ではないか!?
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感謝の心・・・
先日もこのページをご覧頂いた方から有り難い励ましのメッセージが届きました。こんな「オッサンの言いたい放題」に感銘いただき恐縮です。かなり長い間、更新を控えていましたが、勇気百倍・やる気倍増(^^)/ Iさん、ありがとうございました。
よく言われるのですが「これを書くために考えているのですか?」
いいえ、昔から思っている事柄もありますが、今日何かを書こうと思ってキーボードに向かってから思いついたことをそのままが多いです。だから、私はいい加減なオッサンです(ろくでもないヤツの一人)。
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気力
最近「気力」という言葉が周辺に聞こえてくることが多い。 「やる気」という程度のものではなく、昔風での表現なら「根性」に近いもの。
この「根性」という言葉、私は若い頃から好きではないのだが、たしかに「根性」を感じさせるヤツらは実に多くいて、私にはそんな真似とてもできないと尊敬した?ものだ。
うまく表現は出来ないが、私は「気力」とは「根性」より、もう少しスマートで粋なものだと解釈している。 私が「根性」が嫌いで「気力」に好感を持つ理由は、周囲からも「頑張っとるなぁ」と判断できるのが「根性」なら、周囲に気取られずさり気ない風に通すのが「気力」であるからではなかろうかと思う。
「限界に来て発揮される根性」より「相手に悟られない気力」の方が、はるかに好きな理由である。
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間違っても
「教えてる」とか「習ってる」と思ってはいけない。どちらも互いが医者と患者のようなもので、病気や怪我を治すのが医者ではない。患者が治そうとするのを医薬が手伝っているのである。
もっとも昨今は「教えることが出来る人」も「習うことが出来る人」も、そうそういるものではない。
治れば「自分の腕がよかった」治らなければ「手の打ちようがなかった」「これが精一杯だった」「寿命だった」・・・が藪医者。試合に勝てば「俺が教えた」負ければ「あいつは勘が鈍いから」「練習が足りないから」etc.
藪先生の多いこと多いこと・・・
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「胴着」って・・・
いうのは「薄く綿を忍ばせた防寒用の下着」であって、剣道の稽古に使うものではありません。それは袴と合わせた場合に「剣道着」といい、袴をのぞくと「稽古着」です。
「稽古をする前に用語なども正しく学べ」と四十年ほど前、当時の範士二人から何度も教えられました。
仮に「どうぎ」と発音するのなら「剣道着」を略した「道着」なのでしょう。
大抵のホームページもインターネットオークションなどでも「胴着」と表現されているのがとても気になっています。教士七段とか、武道具店が使っているのは情けない気がしますが、これって考えすぎですか?
ただ知らないだけだと思うのですが・・・ (今度、出入りの店へ行って「胴着ちょうだい!」 稽古着が出てきたら怒ってやろう?!)
ちなみに、そのうち一人の範士にこんなことも怒られたことがあります。「防具と呼ぶな剣道具である。防ぐ気持ちを以て稽古が出来るか」
未だにこれは直りません・・・。「間違いなくこれは方便もしくは冗談であった」と思うからです。なぜなら「相手の技を防ぐ道具」などあるはずもなく「怪我を防ぐ道具」として正しい言葉でしょう。なにしろ、私との将棋でさえ自分の王将を隠して指している先生でしたから油断はなりません・・・?! 「先生! 持ち駒は何でしょうか?」「知るか! 数えたらわかるわい!」竹刀をおくと冗談の固まりでしたから・・・
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言いたい放題の
このコーナー、取り敢えずというか何というかとにかくページを増やすだけ(別にそんな必要もないけど)の目的で始めたのだが、最近は自分自身ででも「言いたい放題」だと思うときがある。そのたびに削除しようかやめようかと考えることもあるのだが、なぜか「お気に入り」に入れていただいている方が多いので、またまた調子に乗って憤懣本舗継続。
何処のどなたか存じませんが・・・「お気に入り」に入れていただいている方、お一人でも結構です。その理由などをお聞かせ願えればと(..;)
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自主性・・・
子どもたちをよい方向に育てる教育に「自主性・主体性」を欠くことは出来ないが、そこには不可欠なものがある。ややもすれば子どもたちの機嫌を取るようなバカ教師も多いようで「強制」を否定したり置き忘れたりしている現実がここにある。
誤解を恐れずに発言しよう。「子どもたちに人権はない」 前述のバカどもにこの意味は分かるまい。
必要以上に自主性・主体性を重視することは「我慢と努力を知らない人間」を育成していることに他ならないのである。
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まず土を作れ
肥沃な畑があってこそ良い作物の収穫が可能である。良い種や苗も脆弱な土壌に蒔いたり植えたりするから枯れてしまうのだ。よい環境がなくてよい子が育つわけがないし、よい子も環境次第で天性さえ失いかねない。
このことを思ったとき、完全に記憶していなくて恐縮だが東井義雄氏が「・・・は作物を作り、よい百姓は土を作る」という言葉を残していたことを思い出した。
道場に立つ限り「よい畑」「よい土」になりたいと常々思ってはいるのだが・・・
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差とは・・・
辞書によれば、違い・開き・隔たり・差し引き・差異・差違・相違・差別・公差・偏差・誤差・格差・・・etc.
なくてはならないものもあるし、あってはならないものもあるのだが、得てして人というものは差を好む傾向にあるようだ。高級外車に乗りたがりブランド品を持ちたがり、そして装飾品を身につけたがる。他人と差を付けることで優位に立った気分になるものらしい。
しかし、よく考えてみると孔雀の羽みたいなもの。厚化粧にしてもそうだが自分を良く見せたいという、他人を欺こうという気持ち以外の何でもないのではないだろうか? 誤解を恐れぬならば、自分に不足しているところを外見で補足するという「単純で姑息」な行動だと断言できる。
かく言う自分も十代で大型のアメ車に乗り、車は二十代になっても「車検までに乗り換え」がモットー。二輪はハーレー、剣道具は当代一流の職人製。稽古着といえども袴に至るまで総手刺の別仕立て。三十代以降は「アホちゃうか(いや、アホや)」と反省と懺悔!? どれだけの無駄遣いやっとったんや?!
いまや、車は25万キロ走らせるのがノルマ。剣道関係はメイドインチャイナで、しかもバーゲン品・・・。二輪?とっくに免許がなくなってます(..;)
まだ間に合いそうな皆さん! くれぐれもカネの使い方だけは間違えないように・・・
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「決断力」=「思慮深い」
ややもすると「決断力のある人」≠「思慮深い人」と思われがちであるが、私は決してそうは思わない。「決断力のある人」=「思慮深い人」なのだ。
なぜなら、「決断力」≠「思慮深い」の考えは、そのときになってから考えているから判断が遅いだけで、それを「思慮深い」と錯覚させているだけである。まして、そのときになってからでは与えられた時間が短いから深い思慮など出来るはずがないのだから正しい決断など出来る道理がない。平素から考えておくこと! これは、常々言っていることだ。
大地震が来てから、交通事故に巻き込まれてから、火災に遭ってから・・・全て遅すぎる。
私のポリシー「明日があると思うな」も「人はいずれ死ぬのだ」という消極的で投げやり的な思想だと言われることが多いのだが、バカにするなって・・・ それだったら、大戦末期の帝国陸海軍特攻隊員の養成に利用された「武士道というは死ぬことと見つけたり」の誤解釈と大差がない。
明日をも知れないからこそ「今日を」「今を」真剣に生きたいと願うのである。
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柔道界では
オリンピック金メダリスト選手の「事実上の追放」が報じられている。賛否両論の様子であるが、彼がもし剣道界の選手だったらどうだろうか? 不謹慎なようだが、思っただけでも興味は尽きない。
しかし、私見ではあるが恐らくそうはなるまいと思う。何故というなら・・・書きたいがここはグッと堪えよう(..;)
でも、いろんな分野のスポーツ選手を見ても分かるように「いい子であり続けて勝ち続ける」ことには相当なプレッシャーがあるのは間違いのないことであり、あのように結論を急ぐのはいただけない話だとは思う。何てったって「今どきの子」これで普通が今。
これが外国人選手の話だったら、その国の連盟はこんなに騒ぐだろうか? たぶん話題としても取り上げないだろうし、それどころか称えるかも知れない話である。例えば、某国の選手なら「やっぱりオレに勝てるヤツなんかいない、いるなら出てこい!」と吠えているかも知れないし、それが例えドーピングしていてもだ。露見するまでは大口を叩いていることだろう。
「伝統」「国技」「武士道」「大和魂」etc.の反論お断り!! 「いまや国際スポーツだ」と叫びすぎたこと(もちろんそれだけではありませんよ)もあって、ブルーの柔道着に「一応の反対」を唱えただけで納得したんですよ。自分ところの選手にだけ発言にまで制約を加えるのは個人的には「ちょっと変」
「有効」とか「効果」とか、こんなポイント制まで受け入れたのは何方たちだったのでしょうか? 余談ですが書き加えると、管理人はこの選手ではありませんが某金メダリストと一緒に同じ道場で稽古していた「一応柔道家」でもあります。 
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意地を通すこと
通院治療を欠かせないどころか年に何度かは死に直面するような状態になる私であるが、稽古は出来るだけ欠かさないように心がけている。それは下手さと弱さを十分に自覚した自分の人生の目標でもあった。
そんな簡単そうで難しい目標が、剣道を始めてからというもの入退院を繰り返していた十数年を除き殆ど実行できているのだが、今となっては「自分の努力」とは言い難くなっている。
何かというと・・・普通こんな病人なら家族のみならず周囲の人間は誰しも「安静・養生を優先させる」ように説き伏せようとするであろうし、剣道など「もうやめろ」というのが普通だからである。家族の理解なしでは不可能であることに違いはない。それは「私の意地を理解してくれている」ことに他ならず、非常に有り難いことだ。家族の理解に感謝しながら、私は死ぬまで意地を通したいと思う。
ただし、断っておくが
私の意地は「他人に張るもの」ではなく「我と我が身に通すもの」なのである。
そして、こんな意地を通させてくれるもうひとつの「大切な存在がある」ことも忘れてはならない。自分を信じてくれる子どもたちの努力が、明日も私の気力を導き出してくれるのだ。

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